東日本大震災から6年たった今、私達ができることは?

東日本大震災から6年たった今、私達ができることは?

2011年3月11日2:46あなたは何をしていましたか?私は、東京都自由が丘で個人セッションをしていました。今の場所の前の場所でした。磁場のいい自由が丘でも縦揺れと横揺れがひどく2回ありました。2回目の縦揺れは今でも体で覚えているぐらい強烈でした、自由が丘の閑静な住宅街から悲鳴をあげて外に飛びだす人がいるぐらいでした。私たちは、隣の部屋にもクライアント様が十数名ほど別セミナーで集まっていましたので、ビルの窓をすべて明けてから、輪になって手を繋ぎ、「命ありがとう、ありがとう」を全員でしばらくの間、いいました。東京や神奈川は電車がまったく動かなくなってクライアントさまも夜遅くまで弊社に滞在していました。夜、TVで東北一体の津波の様子を見ました。東京都であの強烈な揺れですから、震源地近くでは想像を超える状態だったと今でも感じる次第です。あれから6年間、私達は何に気づいて何ができたのでしょうか?

東日本大震災から6年たった今、何に気づいたのでしょうか?

岩手県580万トン、宮城県1930万トンの瓦礫の処理を終えて、道路やインフラは設備が80%は整ってきているそうですが、福島県の430万トンの災害害廃棄物の99%は見通しがつかない状況であるといいます。震災直後に約50万人いた災害仮説住宅の方々は、現在12万人まで減少したとはいえ(岩手県、宮城県、福島県)、依然として生活の見通しがたたない高齢者も多いという事実があります。また他県に避難した小学生がいじめ問題にあうなど、精神的なストレスは極度に長く続き、復興支援は適切に運用されているのか、現在の予算委員会でも論争が続いています。福島第一原発の破壊は、今もなお風評被害、実際の自宅に戻れないという地区もあり、完全復活まで100年以上がかるといわれています。年に数回は報道されますが、原発内と原発付近で何が起きているのか、闇が水面下にもぐるように隠されていて、よく見えない部分をドキュメンタリーなどで流してもられると同じ日本人として6年後もよく考えられると思います。全身が被爆しても作業をしている人達がいてもいいのでしょうか?その人たちの人生は100年後に報いられるのでしょうか?

もしかして?「人口地震」だったということを日本人の約50%ほどがツイッターやブログから知るようになりました。自然災害ならばあきらめがつく人もいるかもしれませんが、いや、それでも「なぜ」と一生、後悔する人もいるでしょうが、それが、もしも「人口地震」であるとすると、それは現地の人は知らない方がいいのかもしれません・・。被害者でない人達は、日本の闇の深さを思い知る機会となってしまいました。また、「原発」問題、「再稼働」の是非が国民の論争となるようになりました。「電気」このあたり前に使用していた「電気」は「原子力」に依存していいのでしょうか?と日本中の人が考えるようになって、福島原発事故があったので、他の県が賛成したり反対したり論議をするようになっています。

また「日本人」の律する心を海外のメディアが一斉に報道しました。現に精神性の凄さです。混乱と衝撃の最中でも列をつくってじっくりと配給をまてたり他人とゆづりあえたりしていました、私は、311後、海外逃避や四国や九州に引っ越す人や放射能機を持ちあるく母親たちを拝見しながら何かが違うと感じて、5月に「放射能を恐れるな!日本を明るくする今」というイベントを大手町キュリアンで主催しました。2週間前に発表しましたが、300名以上集まってくれました。そのイベントの収益から経費を引いた全額で1台のバスを借りて、当日募った寄付金を現地で救援活動をしている宮城県のNPO団体に持参するために、同じ5月に宮城県入りしました。到着すると、岩手県の南三陸も高台から見せてもらい、「・・・・・絶句」でしかありませんでした。・・感想をいうのもいけないと思っているので控えさせて頂きます。私達は、たいしたことはできないですが、宮城県の小学校の体育館を3軒ほど手分けしてNPOボランティアとして数日間活動しました、夜間は寝袋かバスの中ですごしました。そんなことはいいのですが、段ボールがついたてで仕切ってある体育館でおじさんの固くなった背中を手当てマッサージしていると、「ほい、コーヒーや、寝袋で背中いたいやろうー」とインスタントコーヒーをいれてくれた時に、私は目頭があつくなりました・・。こんなことで泣いてはいけないと、インスタントコーヒーを「おいしいです」と飲みましたことを思いだしました、そのおじさんの家は全部ながされてしまったということです、「命があるからなんとかなるわね」といっていたのが胸が打たれて印象的です。おじさんいまはどうしているでしょうか?このような場面は書ききれません、両親が2ケ月以上行方不明になっている子供達ともドッチボールをしました。私たちのnPOの男性スタッフに何度も「バカバカ」と蹴りをいれていました。私達はその子の怒りの意味がわかっていたのでそのままにしていました。学校の先生がとめてくれましたけど、翌日は、その男の子があやまりにきました。これも泣けましたけど、私達なんてとるにたりません。そんな光景があちこちにあり、連携をとっていた宮城NPOの女性は本当に明るくて前向きで素晴らしくて、「ひとつだけ高台に残ったカフェがあるから行きましょうよ、」というので、「そんなカフェなんていかないで作業します」と私がいうと、「ううん、いってくれるのがとてもありがたいんでね」といっていました。その女性も家がすべて流されていました。すぐ戻った体育館で、全国から多量を超える寄付の洋服や食材の段ボールの仕分けをしました。めちゃめちゃに適当にほりこまれてあるのが多くて、この整理に1週間も2週間もかかると聞きました。区分けも手伝いました。誰も使用できないようなものを送る人、きちんと必要なものを調べて送ってくれる人とよくよく寄付も分かれている次第でした。

体躯間での3食は、高校生が配布していました、掃除も高校生たちでした。母親はしくしく泣いているのですが、「高校生」たちがたくましくて、その姿に胸うたれました。あの高校生が社会で難関があってはなりません。そんな日本ではダメです。どの体育館も高校生、場合によっては中学生も懸命に働いていました、NPOやボランティアはいずれ帰る人達です。わずかなお手伝いレベルです。それでもできることわずかにさせていただきました。「散髪したいなー」といっていたおじさんたち、泣き叫んでいた小学生、ひたすら働く高校生、人間のたくましさをただひたすら感じた次第でした。6年間、語りつくせない人生をすごしたことでしょう。私達は決して無関心にしてはなりませんね。

その後も何ができるのかと、お蔭様で私は普通の人よりはブログなどでの多数の方々に対しての発信力がありますので、その時から「あたり前に思わないこと」「生きている、働いているだけで有難う」「どうでもいいような細かいことで悩まないこと」を6年間書き続けてきました。わずかですが、それが「私にできること」でありました。

シルバーあさみの心眼コメント

「南三陸町の奇跡の一本松」この1本の松のように人間は生きられるのか、これは今見ても涙と止まりません。自然界が教えてくれています。「生きられるよ」

自衛隊の人たちが現地で黙々と炊き出しや瓦礫の撤去をしているのをそばでみました。寡黙にたんたんと悟り者のごとくに仕事していました。この姿にもかなり胸うたれました。アーミー柄の制服で体育館に自衛隊の方々がいるのがやや不思議な感じでしたが、このたび、南スーダンPKO活動から帰国が決まった事象はこむずしいことはさておき、「よかった!」としか思いませんでした。あの自衛隊の人たちの命をかろんじるような闇の政治家がいるとしたら、宇宙は絶対に許さないと思います、それはもしも「人口」的な地震の起因であったとしてもしかりです。しかしながらその闇と戦うことはできません非力な私達は、非力ではないとしたら、「輝いて生きる」それに勝ることはありません。今日も大事に生きていきましょう。それを私達はおそわっています。書ききれませんが、広島土砂災害、熊本地震の方々にも同じ気持ちです。福島からの被災した県でのいじめなど言語道断です。今日の311に思う「自分の生き方」を明るく輝かしていくこと。

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